SS「伊豆の猫」第2章



第2章

0.


 その日は日曜日で、マオは飼い主である杏美の膝の上でごろごろとしつつ、昼下がりの温かさを満喫していた。

 マオは、主人である杏美とその祖父母の、三人の家族と共に暮らしている。
 杏美の父は東京で働いており、この家に帰ってくるのは月に一度か二度。母に至っては、マオがこの家に引き取られてからの間には、一度も見ていない。
 勿論、そこには何かの事情があるのだろうが、マオが知る機会は無く。杏美がその事に言及する様を目にしたことは無かった。

「ほーらマオ、もうちょっとおとなしくしててねー」
『言われなくてもしてるってばー』

 マオの背中を、無数の針金が飛び出したようなブラシがそっと撫でていく。
 始めはその金属質な光沢に注射を思い出して怖がったりもしたけれど、慣れてみればこれが意外と気持ちよく。
 ムダ毛も取れてさっぱりするので、マオは既にこのブラッシングの時間はお気に入りだった。
 ただし、それは杏美と祖母にされる場合に限定した話である。

「私や杏美がブラシ持っても逃げないけど、おじいちゃんがブラシ持つと飛んでくみたいに逃げちゃうのよねぇ」
『だって痛いんだもん、おじいちゃんいっつも力強いし……』

 音でいうなら、ガシっと捕まえてブラシの針金がグサッと来て、ワシワシ~!!と言った感じだ。これがもう痛くて堪らない。
 杏美にしてもらう時は、声や手つきも優しいし、うとうとしてしまう事もよくある。
 おばあちゃんは、声は穏やかだけども指先の力は意外と強い。だけど、意外とツボを押さえていてなんだか全身が解されるようで、終わればシャッキリと疲れが取れてしまう。

「あ、そうだ、おばあちゃん」
「あら、何かしら?」

 しばらくしてブラッシングがひと段落ついた頃。
 毛並みやムダ毛の残りを確かめながら、テレビで歌を歌う賑やかな番組を眺めるおばあちゃんに、杏美が思い出したように声をかけた。

「私が学校に行ってる間は、マオも散歩に行ったりするようになったんだよね?」
「そうだねぇ、でも大丈夫だよ。ちゃんと杏美が帰ってくる前に戻ってくるし、変に怪我も汚れたりもしてこないから」
「そうなの? じゃあマオは私の言った事、ちゃんと守ってくれてるのかな?」

 言いながら杏美がマオの顔を心配そうに覗き込んでくる。
 肩口からさらりと零れた杏美の長い髪がマオの目の前に垂れると、思わずマオは手を伸ばしてじゃれついてしまう。

『うん、僕ちゃんと言われたとおりにしてるよ! クロトラっていう友達も出来たんだよ!』
「あっ、髪引っ張っちゃ駄目だって、もうマオったら」

 髪を引っ張られた杏美が、苦笑いをして仕返しにマオのお腹をくすぐると、マオはなんだか嬉しくなって杏美のお腹に額を擦り付けるようにして甘えるのだった。

『今度クロトラをお家に連れてきたいな、でも杏美ちゃんもおばあちゃんもびっくりしちゃうかな……?』
「うんうん、本当に怪我だけはしないでね。約束だよ」

 マオの声は相変わらず届いてくれないが、杏美は答えるようにマオの鳴き声に頷き、遊び足りないマオをあやし続けていた。


1.

 ある日の昼下がり、マオは蛇に睨まれた蛙のように、身動きが出来ずにいた。

 猫にとって、視線を合わせるという行為は一つの会話の様な物である。
 猫が相手を見つめるという行動には、何かを飼い主に求めたりする時や、親愛や愛情から来るもの、敵意や警戒から来るもの。
 いくつもの意味がそこに含まれている。
 野良猫の場合には、大体にして警戒や恐れから、相手を見つめる事が多い。
 なので、もし人慣れしていない猫に近づきたい場合は、あまり視線を合わせる事をせず、相手の警戒が和らぐまで大きく動いてはいけない。

 そして現在のマオは。

「猫ちゃーん……大丈夫だよぉ、怖くない……怖くない……」

 手をわきわきとさせながらにじり寄る、エプロン姿の一人の女の子から目を離せないでいた。



 遡ること数時間前、その日は、天気も良く絶好の散歩日和だった。
 いつもの駅前に行ってみれば、いつも通り駅の片隅の、日当たりの良い場所でクロトラがどっしりと身体を横たえて昼寝をしていた。
 マオがその姿を見つけて嬉しそうに駆け寄れば、気配を察して寝息が一瞬だけ止まるが、正体を察するとまたすぐに寝息を立て始める。

「ねぇ、クロトラ、何かお話してよ」

 寝ているのをお構いなしに、マオがクロトラに話しかけるが。クロトラは依然として昼寝をやめようとしない。
 しばらく周りをにゃあにゃあしながらぐるぐるとしていると、クロトラも流石に堪えたのか薄目を開けてちらりとマオを見た。

「ね~ぇ~、ねぇってばぁ」
「うるせぇなぁ、さっき飯食って今は動きたくねぇんだ。もうちょっとだけ寝かせてくれよ」
「え~……だらしがないなぁ。いいよもう、僕も寝るから」

 溜息吐きつつ、マオもクロトラの腹目掛けてぼすんと身体を横たえると、居心地のいい姿勢を探してもぞもぞと身体をくねらせる。
 普通の猫よりもいくらか恰幅のいいクロトラのお腹は、適度な弾力と柔らかな毛に包まれていて予想以上に心地が良く、家にある自分用のクッションよりもいいかもしれないとマオは思った。

「おい、わざわざくっついて寝るなよ、うっとうしい」
「いいじゃんいいじゃん、暖かいし」
「……ったく、仕方ねぇなぁ」
「そうそう、しかたないしかたない」

 それから数分と待たずして、あれだけ騒いでたマオが先に寝息を立て始める。
 その様子を見たクロトラもフンと鼻を鳴らし、やがて眠りに落ちて行った。
 やはりクロトラもマオも猫なだけあって、陽だまりの中でのお昼寝には、なんとも抗いがたい魅力がある。

 時々聞こえる電車の音や、遠くに響く鳥の鳴き声は、のどかな日常を感じさせる心地の良いBGMとして。
 クロトラが教えてくれた、パン屋という店からの香ばしい匂いは、マオに未知の美味しい食べ物を想像させる夢を見させてくれた。

 いつ終わるともしれない、心地いいまどろみに二匹が身を任せていると。
 二人の居る場所を抜けるように吹いたそよ風に、マオがようやく目を覚ました。
 クロトラのお腹に身体を預けたまま、ぐーっと伸びをすると、血がさぁっと全身を巡って頭に流れ込むような感じで、すっと目が覚めていく。
 上半身を起こしてきょろきょろと周りを見渡せば、当たりの雰囲気は少し賑やかになってはいるものの、陽の位置はあまり変わってはいないようだ。

「ふわぁ、どのくらい寝ちゃったのかな。クロトラはまだ寝てるみたいだけど」

 杏美が家に帰ってくるまではまだまだ時間がありそうだが、頼みのクロトラは今日は何もする気が無さそうで、ちっとも目を覚まさない。
 うーん、と悩みつつクロトラの大きなおなかを前足でぐにぐにと押してみても、うっとうしそうにするだけでクロトラはやっぱり起きてくれない。

「まぁ、いっか。おばあちゃんがおやつくれるかもしれないし、今日はもうお家に……」

 と。そこでマオが動きを止めた。遠くからでもはっきりと分かる程、こちらをじっと見つめるその瞳に気付いて。

 緑のエプロンをかけた、髪の長い女の子が、マオをじっと見つめていた。
 確かあそこは、サワガニを食べに行く時に教えてもらった、パスタという食べ物を出すお店だっただろうか。
 そのお店の前で、箒を手にした女の子が作業の手を止めて、こっちをなんとも言えない表情で見つめているのだった。

「だ、誰だろう……。あ、こっちに来た」

 彼女なりに、マオを脅かさないように精一杯なのだろうか。
 ぎくしゃくとした動きで箒を側にあった看板に立てかけ、何故か忍び足でゆっくりとこっちに近づいてきた。
 本当に怪しすぎる。普通の野良猫ならば既に猛然と逃げ出していただろう。
 だが、普段から飼い主の杏美ちゃんやおばあちゃんおじいちゃんに優しくされていたマオには人に対する恐れがあまり無かった。
 なので、あまりにも怪しすぎるその女性に対しても警戒こそするものの、ただじっと見つめるばかりだった。
 ある程度まで近づいてくると、彼女がつぶやく声が少しだけ聞こえてくる。

「ふわぁ、逃げないでいてくれたぁ……。可愛い……どこの猫ちゃんかなぁ」

 どうやら、時折クロトラやマオを見つけては撫でたがって近寄ってくる、いつもの人たちの同じ目的の様だった。
 クロトラに相手を任せて逃げてもよかったのだけれど、彼女はマオに興味がある様なので、どうせ暇だからと少しだけ付き合って上げる事にした。
 少しだけ緊張を解いて座り直し、彼女を見つめてマオが挨拶代わりにニィとひと鳴きする。

「かっ、かわっ……!?」

 マオの鳴き声に反応して、女の子の方がびくりと震える。
 何か内から湧き出る衝動と戦っているのか、胸を撫で抑えながら大きく深呼吸して、再びそろそろとマオに近づき始めた。

「な、撫でてもいい? イヤなら眺めるだけにするから……」
『ちょっとならいいよ、強くはしないでよね』

 そうして、手をわきわきとさせながらそおっとマオに手を伸ばし、現在に至るのだった。


2.

「わぁ、毛並みがすっごい綺麗……。首輪も可愛いし、飼い主に大切にされてるんだねぇ」

 女の子の恐る恐るながら思いやりのある優しい撫で方に、マオはとりあえずは安心して身を任せていた。
 頭や背中は毛並みに逆らわずに優しく、顎や首のあたりは少し強めに掻くように。それでいて、多くの猫にとって嫌なお腹や手足には決して手を伸ばさない。
 猫との触れ合い方を知っているようだ。

『ふぁ~ぁ、なんだその人間、また来たのか?』
『あっ、クロトラ、やっと起きたんだ』

 声に振り替えれば、クロトラが立派な犬歯が見える程に豪快にあくびをしていた。
 それから後ろ足で首の横を二度、三度と掻いてからブルブルと顔を振り、前足の爪を立てて地面にひっかけてぐっと伸びをする。

「おお、ボスも起きたね、おはよう!」
『ボス? クロトラの事を言ってるの?』
『俺の事をそう呼ぶ奴は結構いるからな、多分そうだと思うぜ』

 目が覚めてからの一連の動作を終えたクロトラは、少しだけ周りの様子を見渡してから座り込む。
 さりげなくマオよりやや後ろ、彼女の手の届かない辺りに移動したので、今日は撫でさせる気分ではないのかもしれない。

『この女の人、ボスの知ってる人なの?』
『そこのパスタ屋によくいる人間だな、たまに猫を見つけるとこうして寄って来るんだよ』
「私はねぇ、そこのレブってパスタ屋さんでバイト中の、佐伯寧々子って言うんだよ~」

 やけにタイミングよくエプロン姿の女の子、寧々子がマオに自己紹介する。
 ほらほら、とネームプレートを見せつけてくるけれど、マオたちには字が読めないので何のことか分からない。

「キミの名前はなんていうのかな?」
『僕はマオだよ、首のあたりももっと掻いて欲しいな』
「なるほど、マオちゃんっていうんだね!」
『あれっ、僕の言葉が分かるの!?』

 マオの言葉に反応して、更に首輪のあたりをこしょこしょと撫で始めた寧々子に、マオが驚いてクロトラと顔を見合わせる。
 クロトラもなんだか不思議そうな顔をして寧々子を見上げていた。

『……この人、猫の言葉が分かるのかな?』
『いや、どうだろうなぁ。そんなに頭の良さそうな顔には見えないぜ?』

 クロトラがうかがうように寧々子の顔を覗き込んでみるが、確かにどちらかといえばのんきそうな顔立ちに見えた。
 今もマオを撫で続けては、ふわふわとした笑顔を浮かべ続けている。

『それに、どっちかって言えば間抜けそうな……』
「やだもう、飛び切りの美人なんて褒めすぎだよー!」
『……ああ、やっぱり分かってねぇなこれ。多分、マオの名前は首輪を見たんだと思うぜ。タイミング良く偶然が重なっただけだ』
『なぁんだ、びっくりしたぁ』

 結局の所、彼女は単純に猫に対しておしゃべりなだけだったらしく、それからも独り言かも分からないような事を延々とマオとクロトラに話しかけていた。

 小さい頃からの猫好きだが、親が猫アレルギーなのでずっと飼う事が出来なかったとか。
 バイトからの帰りの夜道で、黒猫を見つけたと思って猫なで声で話しかけつつ近寄ってみれば、誰かの落とし物のニット帽だったとか。
 バイト先を決めたのは、あの店の味にほれ惚れ込んだからだとか。

 まぁ、とにかく思いついたことを、思いついたそばから、といった様子。
 しかし、それだけ話し続けても、偶然がそう何度も重なることもなかったようで。
 寧々子がパスタ屋の店主らしき男の人に怒られて呼び戻されるまで、二匹と一人の会話は一度も噛み合う事はなかった。

「うーん、変な女の人だったね」
「そうだなぁ……まぁ、悪い奴じゃないみたいだから、気が向いたらまで撫でさせてやれよ」
「そう、だね。たまにならいいかな」

 それからしばらく、彼女が駆けて行ったパスタ屋を眺めてから、マオは家路につくことにした。



3.

 駅には、当然ながら毎日多くの人たちが訪れる。都心から離れた地方の駅だろうとそれは変わらない。
 そして、その駅近くを縄張りとするクロトラは、毎日多くの人間達を見続け、時には話を聞いてきた。

「なぁ、お前ならハンバーグは何が一番だと思う?」
「大根おろしとしそが乗った奴だね、アレが一番だよ」

 そしてここ数カ月、夕方に差し掛かる少し前、マオが飼い主を迎えるために家に帰った後のこの時間。
 クロトラが決まってくつろぐ場所の傍で、いつも同じ学生が話をしているのだ。
 一人は髪を短く借り上げた、いかにも活動的なスポーツ少年で。もう一人は眼鏡をかけた、落ち着いた雰囲気の少年。
 対照的な二人だが仲は凄く良いらしく、この二人に他の誰かが混じる事はあるが、この二人の片方だけが他のグループに混ざる事は滅多にない。

「は? パインバーグが最強だってそれ一番言われてるから」
「あったま来た……! じゃあ明日の帰りに食いに行ってどっちが最強か決めようじゃねぇか!」
「ああいいぜ上等だぁ!! 箱船も注文しようぜ!」

 彼らはいつも食べ物の話をしていた。時には何か食べながら話をしていることも多々あった。
 今日の彼等は、手の中に紙に包まれた食べ物を持っているようだ。そして、眼鏡の少年が手元を見つめながら、話を切り出した。

「俺さ、クレープで総菜系以外頼んだこと無いんだよね」
「えっ、クレープって基本甘い具材だろ?」
「でもそういうの大体生クリーム入ってるじゃん? でもって、クレープは基本暖かいんだよ」
「まぁ、焼き立てで包むしな」

 どうやら眼鏡の少年の手元のクレープとやらには、ツナが入っているようだ。
 昔食べた覚えのある匂いに思わず味を思い出してしまう。
 一方でスポーツ少年の手元の奴は、何やら甘ったるい匂いがする。これは自分の好みでは無いとクロトラの興味は瞬時に失せた。

「だけど俺、ぬるい生クリームって苦手なんだ。食べ過ぎるとうってなる」
「あー、ちょっと分かる分かる。でも慣れると悪くないぜ、ちょっと食ってみるか?」
「うーん、イチゴだけ貰う。こっちのツナの部分食べていいよ」

 相手が少女であれば、甘えた声の一つでもあげればおこぼれの一つでも貰えたかもしれない。
 だが、目の前の少年たちの食欲を見ていると、それはあまり期待できなさそうだ。

『仕方ない、自分で餌を探すとするか……』

 こうしてマオが帰ってしばらく、クロトラも伊豆の町へと消えて行った。

 

(つづく)