SS「伊豆の猫」第3章



第3章

0.

 冬の寒さも徐々に抜け、やっと陽射しが温かさを増してきた頃。
 クロトラも駐車場の一角の陽当たりの良い場所でくつろぐことが増えて来た。余程気持ちが良いのか、普段は滅多に見せないお腹まで見せて寝息を立てている。
 今朝は狩りが上手く行ったので、朝から十分に腹を満たすことが出来ていた。狩りが上手く行った事から来る達成感と、程よく満たされた満腹感に浸って、人間であれば鼻歌でも歌い出しそうな程の素晴らしい一時。

 野良猫にとって食事と言えば、主に小動物を捕まえて食べる事が多い。
 獲物の種類は様々だが代表的なのはネズミから始まり、鳥ならばスズメなどの小鳥だけでなく、狩りの達者な猫はハトやカラス等の少し大きな鳥まで捕まえて見せる。
 更にはヘビやトカゲなどの爬虫類、バッタやセミなどの虫までも。
 人からすればそんな物を食べるだなんて不潔だと思われるような物でも、案外当たり前に食べている。

 今朝のクロトラの食事の内容については特に言及はしないでおくとして、そんな充足感に満ちた昼手前。
 通勤ラッシュの時間もとうに過ぎ去って、駅前はそれなりに静けさを取り戻していた。そんな中で一匹の野良猫が温かい陽射しを満喫しながら寝ていても、滅多に邪魔するような人もいないはずだったのだが……。
 何か嫌な予感がしたのか、クロトラの寝息がぴたりと止まり。薄目を開けた。
 すぐさま自分を見つめている視線と、近づいてくる足音を感じ、その直後。

「あっ、ボス先輩じゃないですかぁ~! おざーす!」
『……またこいつか』

 面倒くさそうに顔を上げ、声のする方を見れば案の定。
 近くのパスタ屋でバイトをしているという、あの寧々子が満面の笑みを浮かべて、ヘコヘコとお辞儀をしながら近づいてきていた。
 今日は長い髪を三つ編みにして肩口から前に垂らしていたが、お辞儀するたびにそれがぴょんぴょんと跳ねる。
 いつもとはまた違う、ベクトルの違ったテンションの高さにクロトラは内心うんざりしていた。

「いやぁ、今日も立派なお腹してますねぇ! ここは一つマッサージでもどうっすか!」
『やかましい!』

 何故か揉み手をしながら擦り寄ろうとする寧々子に、とりあえず威嚇して牙を見せつけると。
 寧々子が情けない悲鳴を上げながら一歩引いた。

「うひっ! だ、ダメだったかぁ……。体育会系ノリがダメなら、後輩のマネージャー風の方が良かったかな……」
『そうじゃなくてだな……』
「先輩っ、今日もお疲れさまですっ! お疲れならマッサージしますよぉ?」
『……ウザすぎる』

 無駄にきゃぴきゃぴとした声を上げながらウィンクまでしてくる寧々子に、クロトラはうんざりと大きな溜息を吐いた。
 猫は基本的にうるさい人間は嫌いなので、大きな声を出せば基本逃げられてしまう。更に言えば、急に動くのも警戒心を誘う為、なるべくゆっくりとした動きの方が良い。
 飼い猫ならまだしも、野良猫であればそれは更に顕著になるので、野良猫と触れ合う際には注意しなければならない……。
 そして残念な事に、寧々子はそのどちらも守れていなかった。

「うう、やっぱりボスは手強いなぁ……。マオちゃんはたまにしか会えないし……」
『……はぁ。今日は眠いから、邪魔しない程度になら好きにしてもいいぞ』

 しかし、流石にこう何度も顔を合わせ続けていれば、敵意は無いのは既に分かり切っているし。
 撫でさせた所で嫌がることをしてこないのも分かっているので、たまにはクロトラもこうして気まぐれを見せたりもするのだった。
 地面にごろんと横になり、撫でろと言わんばかりに背中を見せると、寧々子が信じられない物を見たように首を傾げる。

「えっ、いいの? 今日は撫でていいの?」
『まぁ、マオにばかり相手させるのもかわいそうだからな』
「やたっ! やっぱり運動部の後輩キャラは正解だったかな、次もそれでいけば……」
『……次は噛みついてやろうか?』

 最初は恐る恐るといった感じで、寧々子がクロトラの背中に手を伸ばす。
 数回撫でてみて、嫌がらないのを確認した後。指を立てて肩のあたりをほぐす様にマッサージすると、クロトラも気持ちよさそうに目を閉じた。

「わぁぁ、ボスもまたマオちゃんとはまた違う毛並みの良さだよねぇ。マオちゃんがふわふわの柔らかい感じなら、ボスのはサラサラでコシがある感じだね! お肉も筋肉がしっかり詰まってる感触!」

 しばらく背中を自由に掻かせたりマッサージさせていると、寧々子はいつの間にか上機嫌に鼻歌まで奏でている。
 あまりにも嬉しそうに撫で続けるので、そろそろ止めろと言うタイミングを逃してしまう。

「いやぁ、後で店長に自慢しちゃおうかなっ。店長も奥さんも猫大好きなんだけど、飲食店だから仕事中はダメなんだって」
『お前はダメじゃないのか……?』
「本当は私もダメなんだけどねー、今はバイト前だから大丈夫なのよー」

 寧々子のご機嫌な鼻歌は、彼女がバイトの時間に遅刻しているのを気付くまで止むことはなかった。

 


1.

 人間というのはなんとも食べることに関して贅沢な生き物だと、クロトラは常々思っていた。
 何せ奴らはいつも違うものを食べている。

 昨日はあの店に入ったかと思えば、今日はこっちの店。
 先日は甘い食べ物を片手に歩いていたかと思えば、今日は何やら辛そうな匂いの物を一つずつ口に運んでいる。
 人間は食べるために生きているのか、と思うくらいに食に贅沢な生き物だと、クロトラは重ねて常々思っていた。

 そう、いつぞやクレープという物を貪っていたこの二人の学生たちもまた、今日は何やら違うものを手に持って食べていた。
 いつも通り近くでくつろいでいるクロトラのことなど気にも留めず、手すりに腰を預けて手の中の食べ物について話し合っている。
 スポーツ少年は、紙皿の上にのった丸い香ばしい食べ物を。そして眼鏡の少年は、透明な容器に入った何かを、箸で摘まみだしてポリポリと食べていた。

「たこ焼きって焼き立ては絶対火傷するよな、俺最初の一個はいつも割って覚ましてから食べるし」
「うん、分かる分かる。お腹空いてるからって熱々なのを口に放り込んだら、上顎べろっと行くよね」
「うわっ、やめろってなんか想像しちまっただろ!」

 人間はやたらと熱い食べ物を好んで食べることも、クロトラには理解できなかった。
 猫にとっては湯気の立つ料理など、もってのほかである。
 ちなみに、基本的に猫は30℃から34℃の食べ物を好むので、熱すぎる物や冷たい食べ物は好まない。

「でもってお前はさっきから何をポリポリザクザク食ってんの?」
「え、これ? これ高菜漬け」
「へぇ、高菜漬け……高菜ぁ!?」

 スポーツ少年がびっくりした声を上げて眼鏡少年の手元を覗き込めば、確かにそこにはプラスチック容器にぎっしりと高菜が詰まっていた。
 それをまた眼鏡少年が箸で一つまみし、口へ運んでザクザクと咀嚼する。

「なんだよ、高菜漬け美味しいじゃん。漬物嫌いだっけ?」
「いや、俺も美味しいって思うけど。高校生が帰りに高菜漬け買い食いしてるってのは、レア過ぎるだろ……」
「お前がマッ〇スバ〇ューでたこ焼き買ってる間に見つけて買ったんだよ、なんだか急に食べたくなってさ」

 ついでに言えば、味覚に関して猫は苦味と酸味が殆どで、他は塩味が僅かに分かる程度しか知覚できない。そして苦味や酸味は餌となる肉の鮮度を計るための物であり、猫にとっての味の好みにそこまで重要ではない。
 ならば餌の好みがうるさい猫はどこを基準に餌を判断しているかと言えば、それは温度と香りが重要なのだという。
 なので、食欲の落ちてしまった猫や好き嫌いの激しい猫に対しても、人肌くらいに餌を温めてやると香りも立ってよく食べるようになることがある。

「ていうか高菜漬けなめんなよ、チャーハンに入れてもパスタに入れても美味しいじゃん。明太子と高菜の組み合わせが最近の個人的オススメだな、パスタとかにさっと炒めて合わせるんだ」
「あー、美味いよなぁ、俺お茶漬けにするの好き。鮭の身とかと一緒に出汁茶漬けとかさ」
「良いねぇ……。そのままでも美味いけど、ごま油で炒めるとまたこれが美味しいんだよなぁ」

 そこまで話して二人が急に静かになる。
 突然の沈黙に、なんだと思ってクロトラが身体を起こして振り返ると、スポーツ少年がさっと高菜漬けに手を伸ばそうとしていた。
 しかし、手が届く寸前で高菜漬けはすっと逃げてしまい、伸ばした手が悲しく宙を掴んだ。

「急に俺も食べたくなったんだよ! 一口だけ! 一口だけだから!」
「いやダメだ、帰ったらこの残りでパスタ作ると俺が今決めた!」
「く、くそう、なんだか無性に高菜漬けが食いたくなってきた、今からダッシュで俺も買ってくるかなぁ……」
「ははは、特別にたこ焼きと交換なら分けてやらないでも無いぞ?」
「お願いします!」

 スポーツ少年が差し出したたこ焼きの皿に、高菜漬けが載せられ、たこ焼きを二つほど眼鏡少年がひょいひょいと口に運ぶ。
 意外とたこ焼きと高菜って合うな、なんてことを語り合いながら二人はたこ焼きを平らげた。
 そして空になった紙皿をビニール袋に収めて口を縛り、鞄にしまいながらスポーツ少年が思い出したように口を開く。

「そういえば、パスタで思い出したんだけど。知ってるか?」
「えっ……ああ、知ってる知ってる。実はパスタって紀元前四世紀以上前からあって、その当時から形の変わってない道具まであるんだってな」
「マジで!? そんな歴史あるのかよ、凄いな……って、違うよ! その情報は凄いけど、俺が言いたいのは違う話だよ」

 言いながらスポーツ少年の視線が一方に注がれ、眼鏡少年もつられてそちらを見る。
 緑と白と赤に彩られた、最早クロトラにとっても見慣れた佇まいの店がその先にあった。

「ほら、そこのパスタ屋さんに、可愛いアルバイトのお姉さんいるだろ?」
「ああ、いるね、髪の長いふわふわした感じの人」
「お店の人と話してるの偶然聞いたんだけど、あの人の名前……ねねこさんって言うんだぜ!」
「なん……だと……ッ!」

 ああ、あの変な女か。とクロトラは即座に思いつく。
 クロトラにとってはただのうるさい人間の雌だが、この二人の学生にはそれは魅力的な女性に見えるらしい。

「やばいよな、名前まで可愛いとか」
「なー、どんな字書くんだろうな」
「で、そのねねこさんが言ってたんだけど、あの店にはどうやら裏メニューが存在するらしいんだ」
「おお~、どんなメニューなの?」
「なんでもワタリガニが入ってるらしいんだけどさ、俺もまだよく知らないんだよ」

 カニと聞いてクロトラが思い出すのは、前にマオと一緒に食べたサワガニだった。
 あんな泥臭い物を好んで食べるとは、つくづく人間の好みは理解出来そうもないとクロトラは思う。
 
「へぇ、一度食べてみたいな、いったいどんな味なんだろ」
「俺も食ってみたいんだけどさ、裏メニューってどうやって頼めばいいんだろうな? なんか想像できなくない?」
「ああ、そうだよね……。張り切って裏メニューください! って自信満々に言って、『えっ、何言ってるのこの人……?』て顔されたら」
「やだ怖すぎる、そんなことになったら俺もうその店行けない……」

 それから、二人は裏メニューの頼み方のデモンストレーションだとかいって何やら騒ぎ出したので、
 クロトラはやれやれとその場を離れ、何だかお腹が空いたので今日の餌を探しに行くのだった。

 


2.

 その日は昼前から降り続けた雨のせいで、クロトラは餌を探しに行くのも諦めていた。水に濡れるのは好きじゃないし、獲物だってこんな日は中々見つからない。
 夕方になってようやく小降りにはなったが、水たまりだらけの地面を歩き回る気にもなれず、クロトラは屋根のある駅の一角で通る人をぼんやりと眺め続けていた。
 雨の日は人も皆、足早に通り過ぎていくばかりで声を掛けられる事もなく、気も楽だったが。同時に自分もする事が無いので退屈を持て余してしまう。
 仕方なしに本日一時間三十分ぶり七回目の昼寝をしようとしてた所、いつの間にか一人のスーツ姿の男がクロトラの顔を覗き込んでいた。

「よう、トラキチ。今日もふてぶてしい面してるな」

 その男は、陽が落ちた頃にこの辺りを時々通りがかっては、クロトラに挨拶程度に声を掛けて来ていたのだが。いつからか足を止めて短い間だが話しかけてくるようになった。
 今までに聞いた話をまとめると、この男は近くの学校で教師をしているらしい。

『余計なお世話だよ、お前こそいつもさえない面してるな』
「ははは、まるでお前こそさえない面してるって感じだな」

 低めに鳴き声を上げたクロトラに対して、男は偶然ながらクロトラの言った事を当てて見せる。
 それが少し面白かったので、クロトラは男が伸ばしてきた手を逃げずに受け入れて、しばらく撫でさせてやる事にした。
 男の手は意外とごつごつしていて、穏やかな声や見た目に反して意外にも大きくて力強い。

「ふてぶてしい顔なんて言って悪かったな、サラダチキン食うか? ダイエットに良いって聞いて最近食ってるんだけど、意外と美味いんだぞ」
『悪いけど、俺は人間の食べる物はあまり好きじゃないぞ、生の鳥や鼠の方がまだ好みだしな』

 男は鞄の中から小さなタッパーを取り出すと、その中からほぐしてあるサラダチキンを指で軽くつまんでクロトラの目の前に差し出してみる。
 クロトラが興味深げに匂いを嗅いで身を乗り出してきたので、そのまま目の前にそっと置く。するとクロトラはチラリと男の顔色を一度伺ってから、それを食べ始めた。
 基本的に人の食べ物は猫にとって香りづけが過剰だったり味付けが強過ぎたりもするが、これはそんなことも無く、するりとクロトラの喉を通る。

『へぇ、これは鳥肉か、中々美味いな。人間の食い物にしては余計な味付けが少なくて好みだ。骨も筋も無いし、食べやすいのもいい』
「野良猫にあんまり餌付けするのはよくないらしいからな、腹いっぱいは食わせてやれなくて悪いけど」
『分かってるさ、こっちも気が向いたから食べてやってるだけだよ。……もっと無いのか?』

 悪くない、確かに悪くないぞと差し出された分を食べきると、クロトラは男の顔をじっと見て小さな声で低く鳴いた。
 その様子に男が吹き出しそうになるのを堪えながら、再びサラダチキンを一つまみクロトラに差し出すと、今度は躊躇うことなく食い付いた。
 そうして結局タッパーに残っていたサラダチキンを全て平らげて、クロトラは満足そうに一息つく。
 まぁ、たまにはこういう食べ物も悪くないな、また持って来たら食べてやらなくも無い。そう思いながら、男の首を掻く手にごろごろと喉を鳴らす。

「ははは、満足したか? お前がここまでご機嫌なのは初めてだな」
『ふん、たまたまだ、たまたま』
「うちの生徒達もこんな風にご機嫌取れたら楽なんだけどなぁ、中々上手く行かないもんだ」

 それから、男はしばらくクロトラの背中を撫でながら、仕事に関する愚痴をぽつりぽつりと話し始める。
 クロトラにはその内容はよく分からないし、全く興味は無かったが、ただ黙ってそれを聞いていた。

「部活の顧問だって、俺は学生時代はバレー部だったのに、料理部だぞ? チャーハンだって自分で作れるか怪しいのに」

 黙って聞き続けていると、最初こそ疲れた表情でただの愚痴ばかりだったが。
 段々とその日あった部活の面白い事や、生徒個人の良い所の話になり、やがては愚痴なのか仕事の自慢話なのか分からなくなってくる。

「最初は火を使うから危険が無いように見張って、味見するくらいしかしてなかったけど。今じゃあいつらの為にネットで料理本調べて自腹で買ってるんだもんなぁ」

 そしてクロトラがいい加減聞いているのにも飽きて眠くなってきた頃、スッキリとした表情で愚痴とも自慢話ともとれる男の独り言は終わった。
 男は最後にクロトラの額の当たりをぐりぐりと撫でてから立ち上がると、ぐっと背筋の伸ばして息を吐いた。
 最後の荒っぽい一撫でにクロトラが不機嫌そうに見上げるが、そんなことは知らずに男の顔はにこやかだった。

「さて、そろそろ帰るか。ありがとうな、愚痴なんか聞いてくれて」
『……お前が勝手に話してただけだ、興味ないな』